今回、三越 劇場について書いてみたくなったのは、東日本大震災を受けて、三越 劇場の戦後の文化復興への貢献を思い出したからだ。戦争や戦後の混乱期を知らない世代だから、焦土の日本で、人々がどう考えたか、想像の域でしかなかった。三越 劇場が、戦後掲げた、文化国家建設云々など、眉唾でヨミ、聞いていた一人だ。しかし、今、東日本大震災があって、いろいろな人が、いろいろな組織が、それぞれの立場で、それぞれができることを、復興のためにと動き出していく流れを見て、きっとあの戦争の後の日本人も同じだったんじゃないか...
三越 劇場は、昭和2年、1927年に、三越ホールの名称で、日本橋三越本店6階にオープンした。今でこそ、三越 劇場のように百貨店の中にあるホールも珍しくはないが、当時、三越 劇場は、世界初の百貨店の中にある劇場、ホールとして、口コミで評判になった。
また、現代の建築では、周囲の壁を大理石で仕上げる建築も多くみられるが、当時、周囲の壁を大理石で仕上げ、石膏彫刻を施し、天井にはステンドグラスなど、大変な豪華な仕上げだった。勿論、劇場としての各種の設備も、当時の最高レベルのものが三越 劇場には用意されて...
三越 劇場のオープンは、1927年、昭和2年だが、4月には、三越 劇場の こけら落しが行われた。
三越 劇場は、各種の演芸や、講演会などの催物を目的にして開設されたわけだが、華々しい 三越 劇場の こけら落し の人選もなかなか大変だっただろう。
三越 劇場の こけら落し には、澤村 宗十郎丈(七世)、守田 勘彌丈(十四世)など、歌舞伎界から出演した。

三越 劇場の戦前の利用、運用は、顧客サービスの一環として運営されていた。邦楽の講習会、発表会、舞踏会、コンサート、講演会等で、ある意味、高級な社...

戦前までの三越 劇場は高級な社交場としての色合いが強かったが、1946年、昭和21年、11月22日、終戦から1年余りで再開した三越 劇場は、戦後文化国家建設を旗に掲げた。三越 劇場に限らず大儀名分は大事である。
1946年、昭和21年には、中村吉右衛門一座よる歌舞伎を上演、続いて歌舞伎復興を目指し、故歌右衛門、故勘三郎、故白鸚らが、1946から1950年の間に30本もの上演を、三越 劇場でした。

1949年 昭和24年からは、三和会による文楽、1951年 昭和26年頃から、俳優座、文学座、劇...
三越劇場の歴史を調べて書いているうちに、相撲のタニマチなんかを思いだした。またフランスの「貴族の義務」という言葉も思いだされた。文化や伝統は、心ある篤志家によって守られてきている。
民主主義は大事な概念だと思うのだが、悲しいかな、衆愚にもつながる側面も否定できない。勿論、寝食足りて礼節を知るのも当然で、食うことを優先しているときに、文化も芸術もあったもんじゃない。けれどどんなに悪い時代であっても、誰かがそういったものを守っていかないといけないんだろうと思うのだ。
富める人は、それだけ社会国家から...
「三越 劇場の歴史と評判、評価」の口コミと評判について、Fatipuruさんから意見、感想、経験コラム談を寄せていただきました。(2014/11/5)


この記事を読んでいて、私の頭をよぎったのは、「ん?日本橋三越は、東京大空襲で焼けなかったの?」ということでした。奇跡ですよね。実は、一度も三越劇場には足を運んだことがないのですが、画像を見てみると、結構、芸術的な装飾が施されていて驚きました。私も、今もなお百貨店が独自の展示施設を持っているのは、人集めの為だと思い込んでいましたが、もしかしたら...
「三越 劇場の歴史と評判、評価」の口コミと評判について、Nekokitiさんから意見、感想、経験談を寄せていただきました。(2015/02/03)



三越劇場の存在を知らなかったです。開館が自分の親が生れる前と知り、俄然興味が湧いてきました。戦争でなくなることなく今に至る劇場、一度行ってみたいと思いました。今回ネットで内装の画像をいくつか見てみて、行って生で見てみたいという気持ちが強くなりました。とても芸術性の高い内装ですし、開館当時は庶民にとっては縁のない場所だったろうなと感じます。もっと...
コラム「三越 劇場の歴史と評判、評価」について、Anh Mother さんが感想を書いてくださいました。

三越劇場について全く知らなかったので、サイトへ行って見ました。現在もたくさんの催事や公演が予定されていているのですね。戦前生まれの劇場と言うことに驚きました。私の母親より、年上だと知って、母親に尋ねたら、「行った事がある」とのことでさらに驚きました。なんでも母がまだ若くて独身だった時分に社用で東京の日本橋へ出かけたのだそうです。その時に、本社の方に連れて行ってもらったのだとか。当時は中々入...